みなさんは、どんなことだと思いますか?

【自分で考えることができること】って、本当に大切だと思います。
人との関わりのあらゆる場面で選択する機会があるのに、自分はどうしたいか?を選べない人は、周囲に流されていくしかなくなります。

考えることだけでなく、表現する力、聴く力、選ぶ力、決める力。

自分の人生を生きるために育みたいチカラはたくさんあります。

そしてこの1つ1つの言葉をよく考えていることも大切だと思います。
例えば「表現する力」は、何を表現する力なのか?という視点も持っていないと、ねじれが起きていきます。

もしかしたらあなたのお子さんは、「あなたに気に入られるような自分を表現すること」を求められていると認識し、そのように頑張っているかも知れません。

たくさんの力を育んでいくのは、誰でしょうか?
自分自身です。お子さん自身です。

先の例で言うと、「親に気に入られるような自分を表現できる自分を育てている」のは、お子さん自身なのです。

どのように育ってほしいかを植え付けているのが、身近な大人や環境設定です

「自分はどうしたいか?」をどういう意味で捉えているでしょうか?

自分って何でしょうか?
どうしたいか?を選んでいるその基準は、誰の基準でしょうか?

その子は本当に、「自分」の基準で選べているでしょうか?
教師であるあなたの基準に合わせてないでしょうか?
お子さんに「自分」とは何か?を、どのように植え付けているか?ご自身で考えてみたことはありますか?

「聴く力」って、どういうことでしょうか?

スマホやテレビを見ながら上の空で返事をしたり、言葉尻だけを捉えていきなり叱りつけたり。そんな聴き方を教えている大人の元では、子どもはそのようにしか聴きません。

または、

「どうしたの?○○したいの?それとも▼▼?××にする?□□しようか?〇〇してあげようか?」

考える時間を与えず待てず、自分で考えられるようにサポートをすることもせず、子どもを混乱させる聴き方をし続けていませんか?

または、

「どうしてこういうことするの?なんで〇〇なの?理由は?叱らないから言いなさい!」

と、問い質すことを「聴くこと」と勘違いしていませんか?そのように質問責めにされた子どもは、表現することをやめていき、怒られないで済む反応を見つけていきます。

とても混乱している1つの例として。

「親に気に入られるような選択をして、褒められるような自分を表現しているつもりなのに、自分のことは見てもらえない。自分が何かやらかしてしまうとたくさん質問責めにされるし叱られる。でも何をやってよくて、何がダメなのかが分からないし、ダメなことをしないようにするにはどうすればいいか分からない。どうすれば、いつになったら、認めてもらえる立派な人になれるんだろう。」

そして子どもは、意識的に言語化してそう思えているわけでもありません。
これは自分の考えなのか何なのかの区別がつかない幼児期から、このようなプログラミングをされていくのです。

ここには幾つも認識のねじれが同時に起きていて、大混乱の状態です。

・親の基準が唯一の正しい物差しになってしまっているのに、その基準が何かがよく分からない
・自分の基準を育てることができない
・よく分からないものを基準に自分を育てることが無理ゲー過ぎる
・親を攻略するというゲームは何ひとつ楽しくないのに、強制参加させられている
・でもどうしたら怒られずに済むのかが分からない
・自分はダメな人間だと信じ込んでいる上に、どうすればダメな人間から脱却できるのかが分からない。

こういった混乱を抱えて、健全な人間関係を育んでいけるでしょうか?勉学に励んだとして、豊かな実を結んでいけるのでしょうか?

認知の歪みは生まれつきでしょうか?
環境が、いろいろなものを歪ませて認識させていることに、大人はもっと意識的でいる必要があると思います。

自分という存在さえ歪んで認識しているのに、認知の歪みをどうやって直していけるのでしょうか。

こういった混乱が何年も続き、思春期に差し掛かるとどうなるでしょうか?
また、こういった混乱を抱え、学校などでも同じような混乱を抱えているとどうなるでしょうか?

自分という土台を築けていない子ども期に、親や、学年ごとに代わる教師などの基準に合わせようとしていくと、どのような大人になるでしょうか?

そのような人が親になったら、どうなるでしょうか?

それが、あなたであり、私です。

大人になってから自分の育て直しをしている人の何と多いことでしょうか。
私自身がその1人なので、この連鎖を断ち切りたいと思いながら娘たちと関わってきました。

ですが、私たちの親世代より、私たち世代の方が、自分の育て直しに取り組んでいる人の数が、とても多いと感じています。

今、親世代である私たちは、アダルトチルドレンや自分の育て直しの必要性を理解し、豊富な情報を得ることができ、実践していくことができています。

大人になるまでの子ども期に、子ども自身がしっかり自分を育てることができる環境を、私たちなら作れると思いませんか?

どんなことが良くなくて、どんなことが良いか。
身をもって体験してきた私たちの世代が、次の世代へと手渡せるものは、そんな環境ではないかと思っています。

私の祖父母は、戦争を体験しました。我が子も亡くし、多くのものを失い、戦後の混乱の中で働き、暮らし、子育てをしました。1人1人の発達のこと、心のことを観れる余裕があった人なんて、とても少なかったのではないでしょうか。

生きて、命を繋いでくれたこと。そのことに深い感謝しかありません。

だんだんと経済的に豊かになっていった時代に育った私の親世代は、自分のことをよく分からないまま、子育てをしました。高度経済成長期、バブル崩壊、デジタル化、、、、

丁寧な仕事や暮らしがだんだん失われ、核家族化、分断、便利さ、大量生産、、、という時代の変化の中で、競争を勝ち抜いていくための子育てが主流だったのではと思います。

大切なものが育めていなかったり、失われていったりしていることに気づかせないような政策をされていたんじゃないか?と思うくらい、見事に私たちは物事の本質から遠ざかってしまいました。でもその選択をしてきたのは、私たち1人1人。

私が考えている、【自分で考える子を育てるために欠かせないこと】とは。

〇自分で考えている大人が身近にいる環境。
つまり、自分が何かが分かっていて、捻じれているものを捻じれとして認識できて、それを解くことができる人。

〇子ども自身が、自分で考えたり、その考えを安心して表現できる環境。

この2つがないと、よほど優秀な人でない限り自分で考えて表現していける自分を育てていけないと思います。

まだ自分を失っていない子ども達から、自分を失わせているのは、自分を失っている大人達の方なんです。自分を失っている大人が教育しているつもりになって、ものごとの混乱を連鎖させているんです。

自分で考えられる環境を用意せずに「自分で考える子に」というのは無茶というものです。


その矛盾の奥には、潜在的に

「自分で考えられる子にしたくない」
「管理・コントロールしていたい」
「自分に都合の良い人間に仕立て上げたい」

という意思がセットされています。プログラミングとも言えます。

そうセットされている人自身の潜在的な意思は、

「自分では考えられない。考えたくない。」
「管理・コントロールされているのが楽。」
「自分は都合よく使われていて不満だらけ。社会が悪い。会社が悪い。政治が悪い。」

といった状況になっています。どこにも、自分で引き受けているものがない無責任な状態です。でも自分では、考えていると思っています。

社会を悪者にしている人は、自分もその社会だということに気づけていません。
全ての人が、例外なく、誰かにとっての環境であり、社会です。

「私は本当に考えているのだろうか?」
「この考えは、本当に自分のものだろうか?」
「私はどうしてこのような考えに至ったんだろうか?」
「私の考えは本当に最善のものだろうか?」

大人自身が自分に問い続け、考え続ける姿を見せることで、子どもは安心して自分で考えていられるのだと思います。