私の父は59才の時に、心臓がバンして急死した。
体調不良で仕事を早退し、家に帰る途中の路上で力尽きた。
まだ死ぬつもりなんてなかったんじゃないかな。
でももしかしたら、あの日は死を感じたのかも知れない。
最期に何か、休みで家にいる息子に挨拶くらいしたかったのかも知れない。
だから病院には行かず、家に帰ろうと思ったのかもしれない。
病気だけでなく、紛争や事故で亡くなる人もいる。
よもやそこで死ぬとは、顕在意識では分かってない人が大多数ではないかと思う。
潜在意識では分かっていたとしても、そこが切り離されているのが地球人だから。
肉体という着ぐるみを脱いで初めて、はっと気づくのかも知れない。
「あれ、死んだ。うわぁー、聞いてないって。ちょ、もう1回やらせて!あそこが終わりと分かってたら、もっと本気でやっててんって!お願い!」
そうかと思えば、自死していく人もいる。
文科省が10月13日に発表した調査結果によると、不登校の児童生徒数は19万6千人を越えている。毎年、増え続けている。同じ調査データの中には、自殺した子どもの数も掲載されている。
昨年、自殺した小中学生は499人で、過去最多となったらしい。
コロナ禍が要因か、子どもの自殺が過去最多に 前年度比31%の大幅増加:東京新聞 TOKYO Web (tokyo-np.co.jp)
コロナがきっかけというのもあるかも知れない。でも、大人はコロナのせいにしたらあかんよね、と思う。いろいろ分析されて対策も練られているから、私がとやかく言うことではないかも知れない。
でも他にもう1つ、気になっている視点がある。
死にたいと思ったけど、「死ななかった子たち」のこと。
上記の記事内に、以下のような記述がある。
NPO法人若者メンタルサポート協会の岡田沙織理事長の話 私たちに「死にたい」と訴える子どものほぼ全員が、家庭環境に何らかの問題を抱えている。一部の子には家庭から逃れられる場所の一つでもあった学校も、コロナ禍による休校や行事の中止が相次ぎ、居場所が失われた。
家庭環境に何らかの問題を抱え、「死にたい」と思うことがありながらも死なずに大人になった人達が、とうとう力尽きて自死を選んでしまうということは、大いにあるんじゃないかなと。不登校という事象の背景にある課題が、そのまま成人の引きこもりに繋がっていくのと同じように、解消されなかった苦しみは、また次の苦しみへと連なっていくものだ。
「死にたいくらい辛かったことを乗り越えて、自分の自信にできた」人なんて、それほど多くはないと思う。その背景に幾重にもなって横たわっている「家庭環境の何らかの問題」は、子どもにはどうにもできない事の方が多い。
何度も自殺未遂をしてきた人や、希死念慮に取りつかれて苦しんでいる人に出逢うと、彼らの成育歴を思わずにいられない。「生き辛さ」とは、それを知らない人達にとって、時には「わがまま」「弱さ」「ずるさ」「自分勝手」と批判されることもある、表面的には見えにくい病だ。
私は子どもの頃に内側で自分を抹消して、心のスイッチをオフにして大人になった。内的に一度自殺したようなものだから、なんとなくなんとなくだけど、想像でしかないけれど、共感するところがある。
「お前はもう死んでいる」と自分に言い聞かせてきたから、物理的に死にたいと思ったことはない。すでに死んでいるから。それはある意味では、自分をものすごく守って来たんじゃないか?という見方もできる。
いろいろなスキルを身に付けて、知識や理解力も深まってから、恐る恐るまた出てきた。頭脳、肉体的な経験値、スキルといった今世での限定的なアバターと、自分という「命の本体」は別ものだ。だから、アバターをある程度この世界で使いこなせるようになってから、私の命はこのアバターと共に生きようと、思えたような気がする。
大人になってから自分を育て直したという感覚は、内的に死んでいた自分の本体である「意識」が、この肉体の操縦席に座って「生きよう」と思ってからの、まるで新しい人生のようなのである。肉体があるのに、意識が肉体と共にいない状態だから、心ここにあらず、意識はいつも想像の世界に住んでいた。それは願望的なファンタジーであったり、現実社会へのネガティブな思い込みであったり。
この世界でのやりとりは、条件反射的に反応しながら生きてくれる意識「エゴの自分」に任せていた。いわば、この世界を生きるための仮面、役割をこなす代役。任されたエゴは肥大化し、健全な本来のエゴシステムの働きを逸脱して、人格者のように振る舞う。
「本当の自分が分からない。何が好きかも分からない。」そんな人は、刷り込まれた自分像や役割を演じるために、エゴを肥大化させてしまったのかも知れない。
本来の自分が生まれ直す時、この人格化したエゴを死なせなければならない。実際は統合するだけなのだけど、エゴ側は「消される」という恐怖から、できる限りの反発をしてくる。アイデンティティークライシス。それまで自分が生きて築いてきた価値観、成果、常識、意義といったものが崩壊することを恐れるのは、この「肥大化して人格を持ったエゴシステム」を自分と思い込んでいる自分。その奥にある本当の自分が出てくるために、死なせるべきは、そのエゴなのである。
だから、寿命でもないのに肉体を脱ぐのは、思いとどまってほしいと願ってしまう。
人は全てを決めてきているし、自由意思がある。
どこかしらのタイミングで自死することさえ、何かの役割のために決めてきている人がいるのかも知れない。私には分からない。単純に、自殺はいけないこととも言えない。その人その人に、生まれて来た目的が必ずあると思っているし、誰も、何も否定なんてできない。
だけど、 「肥大化して人格を持ったエゴシステム」 を死なせて、本当の自分を出現させるはずの人が、そのタイミングで、うっかり肉体を脱いでしまっていることもあるんじゃないかな?と、なんだかそういう気がしてならない。全てが無駄だったような、何もかも失ってしまうような、そういう恐怖を通過しないといけないから。
でも、本当の自分を出現させる目的のある人は、生きてるとしんどいことけど、でもそれでも、生きてみてはどうかな?と思う。
脱いでから、
「しまった!間違えた!ちょ、もう一回やらせて!」
とは、いかないんじゃないかなと想像してる。もしかしたら、いけるのかな?そこも私には分からないけど。
昔の私を知っている人は、今の私は別人のように見えるらしい。自分でもそうだと思う。
実際、昔の自分を意識的に死なせていく作業を何年もかけてやっていた。
2018年はその総仕上げのような1年で、内的には大嵐のような日々だった。その年の12月、幼少期に過ごした町を1人で歩き、置き去りにしていた自分を迎えに行った。
その数日後、本当に死んでしまうかも?と怖くなるくらいの過呼吸の発作が起きて、それまで私の代わりを担ってくれていたエゴ人格の私の最後の部分を統合できた。
それから1週間体調を崩し、身体的にも大きなデトックスが起きた。
あの日以来、小学生の頃から起こしていた過呼吸が一度も起きていない。自分らしい自然な呼吸ができるようになったのだ。
感覚が鋭く目覚めたのはそれからで、この感覚を表に出さないように閉じ込めてきたんだなぁというのも、思い出してきた。別に何か特別な能力があるという意味ではなく、本来の自分でいられているという感覚。
それから、自分の育て直しをしている。
生まれ直したということは、そこがまた新たな人生の始まり。
長いことかけて、やっとそういうところにいる。
でも、あの時死ななくて良かったって、心から思ってる。
自死しようとしたのではなくて、殺されそうになった時。
同じなんだと思う。私は自分をたいそう粗末に扱っていたから、だから自分をあんな目に合わせた。私が世界に放った自分を、人から経験させられただけのこと。
だからね、私のような、取り立てて何も秀でたものもないような人でも、生きていることを毎日味わって、感動して、いろんなことに心が動いて、「生きてる」ことに満たされていたりするから。
何ができるとかできないとか、持ってるとか持ってないとか、そういうところじゃないところに、「生きる」ということがあるんだと思う。
あなたも、今、あなたがあなたをどう思っていようと、「あなたはそんなもんじゃないんだよ」と、知ってほしい。
最近、「めちゃくちゃに落ち込んで、気力も何もない」という人が、少ない気力を使って電話をかけてきてくれたから、ものすごい心が動いて、こんな記事になりました。
その人自身の力を引き出せるような言葉を、うまく見つけられなくて。
いろいろ話してみたけど、最後は祈るような気持ちで「あなたは大丈夫」と言い切った。
がんばって生きてきたこと、辛い経験をしてきたこと、ずっと痛みを見ていること、ぜんぶ伝わってくるけど、「本来の自分を生きる」ために生まれてきた人だと思うから。
死にたい自分と生きたい自分がせめぎ合って、強迫観念と罪悪感を行ったり来たりしているのは、本当にしんどいと思う。
でもそれでも、生きてみてほしいと思う。
それは私のエゴかな。
でも、「あなたはそんなもんじゃないでしょ」と、思えてならなかったよ。