伝えなかったこと

あの日
幼い娘達の手を握りしめ
電車の窓に映る自分を睨みつけていた

いちばん自分を
𠮟りつけたかったのは
1度も伝えなかったこと

いつかいつかと20年もやり過ごし
過ぎていく日々に気を取られてた

伝わってたよ
受け取ってたよ
嬉しかったよ
ありがとう

カチコチになった冷たい頬に触れて
小さな四角い小窓から覗き込んで
カサカサでアツアツの骨を拾って
仏壇の前に揺れる煙を辿って

あと何回悔やむんだろう
数珠玉をひとつ、ひとつ、数えていた

愛を伝え合うことが
生きるということなのかも知れない

生きていれば伝えられる
伝わってるか確認できる
伝わってるよって伝えられる

言葉ではなくても
仕草や眼差しで
愛のある行いで
温もりや微笑みで

あなたはそうしてくれていたから
今この時も伝わってくる

わたしはどうだったかな
いろんなことが邪魔をして
何でもないような顔しか
見せてなかった気がしてる

次も逢えると
どれだけ信じていたとしても

逢えないこともある

だから
逢えることのキセキに
思考が止まる時

愛が満ちて
凪いでるんだよ

(2020年7月記)

2013年の投稿より抜粋

今日は亡き父が生きていれば65歳のお誕生日。
そして今年は7回忌。
一緒に暮らしたのは10歳までだし、てんやわんやな家庭だったけれど。

離れた後もずっと。
亡くなるまでずっと。
今でもそっと。

不器用だけど愛着のあるキャラで愛して見守ってくれている。

小さい娘たちにおやつを届けてくれたのが最期だった。
ご飯食べて行ってって言うのに、30分ほどの滞在で帰って行った。

立場や関係性が変わっても、父らしいやり方で、ずーっと愛を与えてくれていた。

私の結婚式でも、母方の親戚一同が集まる中でたった1人やって来て、私のわがままな夢を叶えるために一緒にバージンロードを歩いてくれた。

あの場にいてくれたこと、今でも奇跡のように想う。

あの日見せてくれた笑顔が遺影となった。

父は生前、離婚したこと、私たち兄妹3人を母子家庭にしてしまったこと、父親不在でバランスが悪く、成長過程に色々な障壁を作ってしまったことをずっと気にしてくれていた。

父親として何ができるか考えてると、1度話してくれたことがある。

高校時代も毎月必ず1回、ランチをおごってくれて、いろんな話をした。
ランチの後は必ずカフェでケーキセットを頼んでたくさん話した。

女子高生とおじさん。
援助交際って思われるかな?なんて少し恥ずかしかったけど、一目で親子と分かるくらい似ているからその心配はなかったかな。父は知識が豊富で探求心が強く、「自分で考えること」を教えてくれていたのだと思う。

還暦まで、あと7ヶ月ほどの寒い日だった。

具合が悪いのを我慢して仕事をしていたそうで、あまりに顔色が悪いので早退するように言われて帰ったらしい。

駅から家まで帰る途中の、あとほんとにもうすぐ家だという所でチカラ尽き、心肺停止で運ばれて帰らぬ人となった。

あとちょっとで年金もらえるって笑ってたのに。

何で生きててくれないのって、何度も何度も思う。
でも生きて目の前にいたら、不器用な私はきっと、素直に想いを伝えられないんだろう。

今の関係の方がもしかしたら、ダイレクトに私の想いを聴いてくれているかも知れない。
そう想って、いまだに心の中で父に話しかけてる。

(2013年7月記)

親子の関わりでテクニックより大切だと思うたった1つのこと


子ども時代を生きる子ども達は、たくさんたくさん、たくさんたくさん、お父さんやお母さんとおしゃべりがしたいのです。

その時期におしゃべり出来ずに大人になると、心の中に子どものままの自分を隠し持ってしまいます。

その子を癒し解放していく作業は、とても長い道のりで、度合いによっては社会的に適応出来なかったり、人間関係で臆病になったりします。

忙しい社会かも知れない。
忙しい毎日かも知れない。

でももし、お子さんがおられるなら。
1日にたった5分でもいい。

他に何もせず、お子さんの表情だけを見つめ、お子さんの言葉だけに心を傾ける時を持ってあげて下さい。否定せず、その子の存在をまるごと、ただ受け止める時間です。

子ども達は、安心して、たわいもない楽しい事をたくさん分かち合えたら、満たされます。口数が多い少ないは関係なく、日々の継続した心の触れ合いです。

安心できているなら満たされます。

きっとそれだけで、勉強や習い事や友人関係など、心配を手放していけると思います。
お子さんのこと、将来のこと、信頼できると想います。

なぜならお子さんが、親の心配をしなくても良くなり、親に信頼を寄せられるようになるからです。