私は今、43才です。
40才前後から、孔子が晩年になって綴ったという言葉の一節、
「四十にして惑わず」という言葉がよく浮かんできます。
「子曰く、吾十有五にして学に志す、三十にして立つ、四十にして惑わず、五十にして天命を知る、六十にして耳順う、七十にして心の欲する所に従えども、矩を踰えず」
(私は十五才で学問を志し、三十才で学問の基礎ができて自立でき、四十才になり迷うことがなくなった。五十才には天から与えられた使命を知り、六十才で人のことばに素直に耳を傾けることができるようになり、七十才で思うままに生きても人の道から外れるようなことはなくなった)
『論語・為政』より
私には大した学歴はありません。
高卒だし、中3から労働もしていたので、高校時代はできる限り勉強はせずに過ごしました。
夕方からのバイトのために授業もできるだけ寝るなどしてエネルギーを温存し、無駄に体力を浪費するような持久走、水泳などの授業や大会も出来る限り回避。
適当に友人達と楽しみつつ過ごし、ただ、卒業しただけです。
公立の進学校だったので周囲が受験勉強に励むなか、私はせっせとバイトに励み、卒業とほぼ同時期に実家を出て1人暮らしを開始。
入学した専門学校も、授業内容などの現実に興醒めして早々に退学。8月には高校時代に貯めたお金を使って、1か月間カナダへ短期語学留学を兼ねてホームステイに行きました。
就職も1度もしたことがありません。バイトで生計を立てながら、社員登用されそうになると次のバイト先を見つけて辞める。そんなことを繰り返していました。
なぜでしょう?分からないんです。社員になりたくなかった(笑)
感覚的には、鎖りに繋がれてしまうような恐れがありました。「社会に取り込まれてはいけない。」漠然と、でもずっと、そう思っていたんです。
どこかで「でも、だって、どうせ」の卑屈な精神も持っていました。
なんとなく社会の中で生きてるけど、実態は社会不適合者です。
その一方で、子どもの頃から本を読み漁り、小6の頃から信仰心について関心を持ち始めていくつかの宗教本を読み、6年生で課題に出された原稿用紙80枚の論文は、イエスキリストの生涯について書きあげました。
中学時代は、内側から湧き上がる問にばかり没頭し、「ほんとうのことが知りたい」という強い探求心がずっとありました。現実逃避とも言いますね(笑)
とにかく、いわゆる「学校のお勉強」からは中2の1学期ですっぱりと足を洗い、お気楽で不安定なフリーターで10か所以上働く場所を変えながら、間違いや失敗を繰り返し、大人になりました。
でも、思うんです。
一般的な王道と呼ばれるルートを歩いていても、たくさんお金を持っていても、大人になっても惑ってばかりいる人はいるなぁと。
そして、機能不全で貧乏な家で育ち、学歴も就職歴もない、落ちこぼれのような生き方をして来た私でも、四十にして、惑わなくなってると。
まど‐うまどふ 【惑う】
行く先が見定められず、または、どうしていいか分からずに、心が混乱する。
今も、分かってないこと、出来ないことばかりだし、一般的な成功者というものからも程遠い。
だけど、落ち着いて生きられているなぁって思うんです。
何かを決めるとき、自分に問えば決められる。
何かが起きたとき、自分に問えば対処法がわかる。(誰に頼るかも含めて)
何かを描くとき、自分に問えば色鮮やかにイメージが拡がる。
今、私という自分が此処にいるだけで、落ち着いていられるんです。
1人がいいという意味では全くありません。
大好きで大切な人たちと生きていたい。
でも、私にとっての世界の中心に、しっかりと自分が存在している。
人のことは人のこと。
その人自身が、その人の世界の中心に立っていると信頼しているし、私の世界にどう影響してもらうかは、私が決める。
何が言いたいかというと、世間一般的な道から外れて、道草くって生きてるような人でも、その人自身が自分を導く力を持っているか?が大切だと思うんです。
ほんとうのリーダーシップを、自分との関係性の中で発揮できているか?
子ども達がいろんな壁にぶち当たると、親や周囲はあれこれ心配になるけど、その機会に根っこを伸ばし、土台を築けるような働きかけ、寄り添い、または見守りなどのサポートがあればいいんじゃないかと。
収入や暮らしぶりは人それぞれ違うけど、どうであれ、そこに「安寧」や「恕」の心があるか?その根拠を自分の中に持っているか?
あっちにこっちに感情や思考や在り方がぶれてしまわずに、落ち着いて自分という場で生きているか?
私には、そんなことがとても大切に思えるのです。
五十にして天命を知ることができるかどうかは分からないけど、今は自分の操縦席に落ち着いて座れてる気が(やっと)してるから、この道のりを楽しんでいようと思います。
「七十にして心の欲する所に従えども、矩を踰えず」
(自分の心に思う事をそのまま行なっても、まったく道徳の規範から外れることがない。)
という、孔子が七〇歳で到達した境地には、辿り着ける気はしませんが(笑)
(文:かおりん)
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